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研究者になる

落合知帆(地球環境学堂・助教)

夢中になるとは

アメリカの大学で社会学を専攻し卒業後、アルバイトとして開発コンサルタントで働く機会を頂いた。初めは英語が話せる雑用から始まり、ベトナムやブラジルでの下水道整備事業のコーディネーターとして採用していただき、現在の防災研究につながるプロジェクトに携わった。7年間弱、コンサルタントでの業務で海外経験を積んでいくが、次第に専門性が問われるようになり、また、その頃から社会配慮がプロジェクトの中に取り込まれるようになり社会的専門性が必要となってきた。社会分野を担当するものの、その手法や結果に不満と不安を感じていた。「もっと専門的な知識を得なければ」そんな気持ちから、30歳を機に地球環境学舎の修士課程に入学することにした。修士課程を終えたら会社に戻るつもりが、もう少し学びたい、専門性を身に付けたい、もっと深く考えてみたいという気持ちから博士課程に進んだ。

博士課程では、途上国支援の現場で行われているワークショップ型の防災教育に疑問を持ち、日本の伝統的な自主防災を研究した。漁師町や山間部集落の人々の生活を見聞きし、消防団を追っかけ、漁師たちの納屋でお酒を飲みながら祭りを観察し、ご親切にも宿舎を提供してくださる住民の方の家でくつろぐ生活を、それ以来過ごしている。博士論文をまとめるに当たっては、既に現在の職に就いていたので研究室所属の学生たちの生活や論文のお手伝いをしながらではなかなか集中して分析作業や執筆に取り組めず、論文の不採用通知を受け取る日々の中で精神的に落ち込んだり、涙が出たり、食べ過ぎたり食べな過ぎたりで体重が大きく変化するときもあった。そんな時に私を支えてくれたのがフィールドでお世話になるおじさんやおばさんたちだった。漁師の親方は人の上に立つことの難しさや、運命・宿命について話してくれたこともあった。フィールドのお母さんがおいしい太刀魚の梅干煮とおかゆを作って癒してくれたこともあった。そんな皆さんの支えがあって、私は今でもこの研究を続けていられる。

私も未だに「研究者とは」何かがよく分からない。ただ、お世話になった皆さんにどのような恩返しができるのかを考えるようにしている。私を指導してくださった教授の先生は、私が論文執筆で足踏みをしている時に、「自分が文章を作ろうとするから進まない。彼らが言ってくれた言葉を素直に書けばいい」。とよく言ってくださった。私は、私が知り合った普通の、しかし喜びと楽しみと問題とに溢れた人達の生活を記録し、そこに日常と災害との関わりや防災の学びを見出していくことが研究だと考えている。京都大学で知り合ったある教授の先生が、小さな貝やら虫をたくさん集めていて、それを「見てください、こんなにいろんな種類があるんですよ」と見せてくれた。私はその先生に「研究ってどうしたらいいんですかね?」と問いかけると、その先生は「夢中になることでしょう」と教えてくれた。私はそこに住む様々な個性あふれる人間に夢中なんだと思う。そしてその人達がどのように地域で生活し、そして災害と関わりを持ちながら、また影響されながら生きているのかを少しでも理解したいと思っている。

現在、京都大学若手人材海外派遣事業「ジョン万プログラム」に採用していただき、カリフォルニア大学バークレー校に客員研究員として席を置いている。約20年前に起きた火災後のコミュニティ再建と自治会の役割についてこの1年をかけて調査研究する予定だ。個人的な経験をインタビューしたり、図書館にファイルされた過去の新聞記事を一つひとつ読んだりと貴重な時間を過ごしている。また、定期的に行われる諸外国からの研究者の研究発表や議論を聞くのも大変勉強になる。1年という長いようで短い期間で自分に何ができるのかを悩みつつ、学際的な環境の中で何か方向性を見出したいと考えている。

最後に、私は京都大学内で女性研究者採用促進に関わった諸先輩・諸先生方の理解と努力のお陰でこの職に就くことができた。アメリカの大学は女性教員の比率が高く、また男性教員の女性教員に対する意識も協力的で尊重されていると感じる。京都大学においてもこのような環境が築かれることを望む。

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