ホーム > 女性研究者の生き方トップ > 過去の記事トップ > 西 芳実(地域研究統合情報センター・准教授)

研究者になる

西 芳実(地域研究統合情報センター・准教授)

研究者だからこそできる情報発信をめざして

 私が大学に入学した1989年は、昭和天皇の崩御、天安門事件、そして「ベルリンの壁」の崩壊があり、昭和と東西冷戦期という二つの時代が終わりを告げた年でした。そのような時代の変わり目の時期に学部学生時代をすごしたことは、大学教員、あるいは研究者に対する私の見方に大きな影響を与えたように思います。現代政治にとどまらず、人文社会科学系の授業の多くで、従来の枠組が通用しなくなった状況の中でどのように新しい世界像を構築するかという問題に真摯に取り組んでいらした先生方の姿が印象に残っています。研究者は世界を背負っているのだという気概が一学生の身にも通じるような緊迫した授業があったことを今も覚えています。

 私自身は学生時代の多くの時間をワンダーフォーゲル部での活動に費やしました。今ふりかえれば、あの頃もっと本を読んでおけばとも思いますが、その一方で、当時真剣に遊んだことは今の仕事の下準備になっていたのだと思います。行った事のない土地の様々な情報を調べて登山計画を立てることは、フィールドワークの準備によく似ています。地図の読み方や自分のいる場所の把握のしかたも覚えました。技術的なことだけでなく、育った環境や体力・技量の違う者が寝食を共にしながら旅をする経験を重ねたことで、人によってできることとできないことに違いがあること、また、場が維持されているのは様々な人が持ち出しで仕事をしているからであるといったことを学びました。そのようにして共同作業を行う過程では、いろいろと辛いことも起こるのですが、最後に得られる美しい景色は格別でした。たかが遊びではありましたが、このときに、いろいろな人と共同でプロジェクトを進めていく際の心構えと面白さを知ったように思います。
 大学院に進学したのはもう少し大学で勉強をしたいという単純な理由からでした。その頃先生方から紹介された学術論文は、ある地域、ある時代に生きた人々について語るものでしたが、なぜかそれらを読むと自分自身の身近な悩みを解消する手がかりが得られるという経験が続き、もっとそのような論文を読みたいと思ったからです。

 ちょうど大学院重点化で大学院の定員が大幅に増加した頃でした。ゼミには大学卒業後にいったん企業等に就職した後に、どうしても大学院で勉強したくて仕事をやめてきたという人をはじめ、様々な経歴の人たちがおり、目標も様々でした。何をどのように研究するかということと、大学に就職するかどうかとは別のことだとお互い思っていたところがあったと思います。だからこそだと思いますが、ゼミが終了して担当教員がいなくなった後も議論が続き、さらに自主勉強会に発展するなどして、ゼミや大学の枠を越えた研究の場がいくつもつくられました。このときの仲間とのつながりは、現在、それぞれ別の場所や立場で仕事をするようになっても続いています。

 将来のことはわからないながらも研究者になることを意識するようになったのは、博士課程に進学後、フィールド調査のためにインドネシア・アチェ州に3年間にわたる長期滞在の機会を得てからでした。現地調査開始後にアチェで独立紛争が激化したこと、さらに2004年スマトラ沖地震津波の最大の被災地となったことは、私にとって大きな転機となりました。この地域が人々の注目を集める一方で、地域についての情報は錯綜していました。このとき、研究の知見を踏まえて研究者だからこそできる情報発信があることを強く実感しました。このときの経験は、紛争や災害といった緊急時の情報発信をどのように行うかという現在の研究課題にもつながっています。

 とはいえ、その後の博士論文執筆や就職は、当然のことながら一筋縄ではいかず、いろいろな方にお世話になりました。博士論文の提出は、博士課程に進学してから11年目のことでした。その後は、運よく「人間の安全保障」という新しい領域に取り組む大学院等で助教に採用されましたが、任期なしの「就職」にはなかなかいたりませんでした。その間も研究活動を続けられたのは、ゼミや大学、学会を越えた仲間とのつながりのおかげだったように思います。

前のページ