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研究者になる

小山静子(人間・環境学研究科・教授)

自分の生き方を考える

「研究者になる!」という言葉を見ての第一印象は、「なる!」ねえ、というものだ。というのも、わたしが院生のころに「研究者になる!」という決意をもっていたのか、はなはだ怪しいからである。実際、大学院の博士後期課程の時に、大学を受験し直して医者になろうかと考えたこともある。結果的に研究者になったが、研究者になっても、この仕事は向かないのではないか、もっと別の人生があったのではないかと心は揺れ動き、どうして院生のときに方向転換する決断が下せなかったのかと思ったりもした。要するに「研究者になる!」という表現からはほど遠い人生なのである。

ただ、経歴からいうと、わたしは大学卒業と同時に大学院に進学し、なかなか就職が決まらなくて、長いOD生活を経験したものの、大学の教員以外の仕事をしたことはない。そういう意味では、研究者になる道をまっすぐに歩んできたように見えるだろう。しかしそもそも大学院へ進学したのは、研究に対して魅力を感じていたことは事実だが、それ以外に、モラトリアムを楽しみたいといった、かなり不純な動機が含まれてもいた(恥ずかしくって書けないようなもっと不純な動機もある)。そして、今思うと不思議なことなのだが、大学院に入学し、修士課程から博士後期課程へと進学した後も、研究をするということと研究者になるということとが、わたしの中では結びついていなかった。では、何を生業として生きていくつもりだったかと問われれば、答えがないほど、何も考えないで、まあ好きなことを研究しているのだから、それでいいよなあと、のんびりと自分の研究のことだけを考えて生きていた。というよりも、研究をするということが、自分の人生について考えることだったのである。

わたしは大学に入ってはじめて、自分が女であるということを考えるようになった。親は放任主義だったし、高校は進学校だったために、家でも学校でも「女の子だから・・」という言葉をあまり聞かずに育っていたわたしだったが、大学生になって大学卒業後のことを考えるようになって、はたと困ってしまうことになる。当時(1970年代半ば)は、多くの女性が20代半ばまでに結婚し、専業主婦となって子どもを2人ほど産むという平準化した家族を営んでいたが、わたしにはそれはあまり魅力的には見えなかった。またわたしの母は父以上の、家庭を顧みない仕事人間であり、その反動で姉は専業主婦願望が強かったが、わたしは母や姉とは違った生き方をしたいと思っていた。しかし、どういう生き方ができるのか想像もつかなかったし、女であるわたしには生きにくい世の中であることもわかっていた。(ついでにいえば、高校では常勤の女性教員は全校で1人しかいなかったし、大学では女性教員に出会っておらず、ロール・モデルになる女性が身近にいなかったなあとつくづくと思う。)

というわけで、わたしは大学に入ってから悶々とした日々を過ごしていたが、結局、わたしの息苦しさはどこから来ているのか考えたいと思い、迂遠に見えるかもしれないが、女子教育史を勉強してみようと思いはじめた。そして学問を媒介としながら自分の生き方を考えることが、社会のあり方を考えることにもつながっていくのではないかと思うようになった。そのため、3回生に上がるときに文学部から教育学部に転学部し、日本教育史を専攻することになる。歴史研究はわたしの性に合っていたようで、それ以来、ずっと史料を読むのを楽しみとして生きている。

ただ、わたしの学問的な興味は、自分の生き方を考えるというところから発しているので、わたしが研究することは教育史研究の枠組みからは大きくはみ出すものとなった。卒論でこそ女子教育史を対象として扱ったが、修論では女性たちが自らの解放のありようをどのように考えたのか知りたくなり、女性解放思想について論じた。この修論には教育という言葉が全然入っておらず、それを教育学研究科の修士論文として認めてくれた指導教官にはとても感謝している。ただ、当時は、自分のやりたいことをするのが研究なのだから、文句あるか!と思っていたし、学問の枠組みなどたいした問題ではないと思っていた。本当に生意気なヤツだった。

研究者となるには、まずはオーソドックスな研究テーマをすることが大事だということを後で知ったが(ジェンダー研究が市民権を得ている現代とは隔世の感があるような時代の話である)、院生の時にたとえ知っていたとしても、研究テーマを変える気にはならなかっただろうし、きっと、研究テーマを変えてまで研究者になることの意味はないと考えたと思う。ある意味、浮き世離れしていたというか、世知に疎かったのであり、結果的に長いOD生活を過ごすことになったが、それもわたしの選択だったのかなと思ったりもする。

このように好きなことをやってこられたのは、お気楽でもあり、しんどくもあったが、今から振り返ってしみじみと思うのは、随分といろんなことで恵まれていたなあということである。その一つが、院生のころに出会った女性学の仲間である。そのころ出会った人々は、今でもかけがえのない友人として、いつもわたしの側にいてくれるし、彼女たちと楽しいおしゃべりをし、時には愚痴を言い合うことが、研究に対する元気につながっていると感じる。そういう意味では、いろいろな人に支えられながら、こだわりをもって自分の研究を続けたことが、結果的に研究者という人生をもたらしたのだなあとつくづくと思うのである。

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