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研究者になる

水野眞理(人間・環境学研究科・教授)

運は必要、でもチューンナップを忘れずに

 私が京大文学部の英米文学科に籍を置いたのは、英語が好き、本が好き、という、いかにも女子学生にありがちな理由からであった。卒業後は、高校の教師になろう、と考えていた。教員免許を取得する科目をとり、4回生の夏に教員採用試験を受けて、赴任校も決まった。あとは卒論を提出するだけだ。

 と、ここへきて卒論を書けない、というピンチに陥ったのだ。今から思えば当然のことなのだが、私は英語のお勉強が好きな女の子に過ぎなくて、文学研究のことなど何も分かっていなかった。20世紀初頭の小説家ジェイムズ・ジョイスを扱った私の卒論は内容も貧しければ、英語の文章も間違いだらけで、出した瞬間に撤回したくなるような代物だった。このとき人生で初めて劣等感を抱き、もう少し大学にいられたら、と願った。そうしたら少しは文学部出身らしい人間になれるのではないか、と。

 赴任が決まっていた高校にはお詫びを入れ、娘が社会人にならないことにがっかりした親にも頭を下げて、私は大学院に進学した。もちろん院生になったからといって、急に文学がわかったわけではないが、研究対象をルネサンス期の英文学に変え、少しずつ、読み、論じることの楽しさを感じられるようになっていった。これが自分の仕事になるのだろう、と思い始めたのは博士課程に進学してからである。

 ところで、私の人生にとって「運」は大きな要素である。この頃に同じ英米文学科で後に夫となる人と付き合い始め、それぞれの留学、博士課程修了後のオーバードクターなどを経て、30歳で結婚した。結婚前の予想を大きく裏切って、夫は家事、育児全般にわたって私以上の負担をしてくれた。また夫とは当時から今まで、論文や口頭発表の原稿を最初に見せあっている。私たちは生活を共にするだけでなく、お互いの研究をもっともよく理解しあえるパートナーだと思っている。

 結婚と同時に、京都市内の大学の二年任期の研修員に採用され、給料らしいものをもらえる身分にはなったが、任期内に何とか専任のポストをつかむことが必要だった。募集があるたびに応募し、落ちまくっていたころ、当時の京大教養部の先生から、英語教員のポストに応募するよう勧めていただいたのだ。このように、「研究者になる」には運は大事な条件だと思う。ただし忘れてはならないのは、運が向いてきたとき、その運をつかめるような状態に自分をチューンナップしておくことだ。これは恋愛でも、就職でも変わらないと思う。

 その後、夫も京大教養部に赴任してきて、私たちは、同僚夫婦になった。これを受け入れてくれた京大の懐の深さには今でも感謝している。夫婦が同僚だと何でも話が早いのはよいのだが、会議のある日は二人ともが家を空けなければならない。息子が幼い頃、教授会の日はベビーシッターを頼み、息子を幼稚園や学童保育から大学の研究室へ連れてきて保育してもらい、会議が終わると三人で手をつないで帰る、ということをしていた。学会に子供を連れて行き、夫と私が別々の部屋で口頭発表している間、小学生の息子が聴衆の間にちょこんと座っていたこともある。

 このような経験から、若い研究者たちが育児の時期を乗り切るのを手助けしたいと思い、最近ある英文学の学会の役員会の席で、「学会託児」を提案した。学会は保育所や学童が休みの週末に行われることが多い。そのために参加を諦めるだろう若い世代こそ、業績を積みたい世代でもあろう。理系の諸学会では託児制度が普及しているのに、文系ではまだまだである。私は、面倒くさいことを言い出す委員だ、という他の委員の表情を予期していたが、思った以上に席上の反応は好意的であった。ただ、中には「理系は女性研究者が少ないから、それを増やすようなスタンスを見せることが、男女共同参画というお題目に叶い、国の科学技術振興政策の恩恵を受けやすいのだ」と皮肉な見方をする男性委員もいた。これが実情なのかどうかは私にはわからないが、たとえどのような動機であったとしても、託児制度のある学会のほうが、そうでない学会よりずっといいだろう。

 自分自身は何とかここまで来たが、決して才能や努力の結果だとは思わない。周囲の人々や運に助けられて来たのだ。だから今度は私が若い人々を手助けする番だと思っている。

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