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研究者になる

速水洋子(東南アジア研究所・教授)

「もう少しやってみたい」をつづけて

 思えば、「自分は研究者になるんだ!」と思い決めたことはない。「もう少し」とつづけるうちに、今に至っているというのが本当のところである。

 私は、文化人類学という分野で研究を始めた。大学の学部時代、特に三年間は大学に行っている日数より、「課外活動」で山登りに入っている日数の方が多かったのではないか。卒業論文という段になって、せっかく人類学を学んでいるのだからとにかくフィールド調査というものをやってみたいという思いで、まさに趣味と実益を兼ねて好きだった南アルプス山麓の村で調査をしたのが、本当に自分で研究をすることの面白さを知る第一歩だった。文献で読んだ文化や社会の理解、分析方法を、村に入って話を聞いたり観察したことにどのように適用できるのか、それで何がわかるのか、そしてそれをどのように書いて伝えるのか、という過程の面白さにハマった。

 しかし研究者になろうと思っていたわけではなく、就職活動も始めていた。その時まで女である自分が社会に出ることの持つ意味を考えてみたこともなかったのが、いざ就職活動を始めてみるとこれまで何の区別もないと思っていた男子学生と入り口のところで全く異なる扱いをうけるのだということを思い知らされた。その一方で、人類学が好きで当然そのまま「学者」になるのだろうと思っていた男性の先輩たちは、家業をついだり、就職をしていった。大学院を教える教員が「男は就職を世話しなくてはならないが、女は嫁に行ってくれるから気軽にとれる」と言っていたような時代である。

 そういうわけで、卒業研究で感じた面白さから「もう少し勉強してみたい」という気持ちと、「就職する場を選択できない」というモラトリアム状況が相半ばして、ここは一気に自分を違う環境に追い込んでみようと、大学院留学を決めた。当時、共同体の宗教行為と身体的パフォーマンス(平たく言えば、たとえばお祭りで、禊ぎをしたり、太鼓の音で舞を舞うなど)に関心があり、そうした研究で最も興味をそそられた論者は皆アメリカの人類学者だったこと、アメリカの大学院は最初は徹底的に勉強させると聞いていたこと、などからそれまでの自分の中途半端な学生生活にけりをつける意味もあり、留学することにした。

 大学院生活そのものは楽しくも死に物狂いに近いものがあった。しかしその中で直線的に邁進するどころか、特に二十代は迷いばかりで、迷いつつ蛇行しながら「もう少しやってみたい」という気持ちをその都度確かめながら進んできた。文化人類学は、フィールド調査が大きな節目となる。調査地を決め、言語を学び、長期調査を実施し、それに基づいて論文を書く。このプロセスを始めると、中途半端に途中でやめることができない。フィールドをタイに決め、言語を学び、(またしても)山地のフィールドに入り、その勢いで今まで続けてきたと言ってもいい。いったん調査を始めると、生身の人間同士の関係が基盤になる。調査地でお世話になり、いろいろ話を聞かせていただき、関係を築いたら、途中で易々とは引き返せない。最初の調査地とはすでに二十年を超えるつきあいとなる。当初の関心は少数民族にとっての儀礼や宗教だったが、現地での関わりができると、ジェンダーや家族に関心が向かわずにはおれなかった。そうしてテーマを広げ、対象地域も隣国ビルマを含めて広げながら、なるべくより高次のレベルの理解へと引き上げる作業につとめる。文化人類学の醍醐味は、常に対象地域で観察する事象と、自分自身の日常や当然とみなしている価値や範疇とを往還しながら再考する絶え間ない営みである。私にとって、研究をすることはいつも自分の足下から見直す過程でもある。

 そうして自分の調査研究が本格的に始まってからも、本当にやめようか、と思ったことがある。博論執筆直後に妊娠し、子供が生まれ、非常勤生活をしながら育児をしていた頃である。投稿論文を少しずつ出しながら、公募に出しまくっては落ちまくり、就職がままならなかった頃である。たまに研究会などに顔を出すと、自分がどんどん世の中からおいてきぼりになっていくような感覚をおぼえた。ただ、そのときも書くことは鬱憤はらしにもなり、とにかく職があってもなくても書けることがあるあいだは書こう、と開き直ったことが、最終的には職を得ることにつながったのだと思う。そして、おかげさまで何とか職のとっかかりを得てからは、どんなに大変でも、子供と過ごす時間があることは自分の生活感覚のバランスにとっては本当にプラスに働いてきたと思う。きっと仕事だけだったら私はつぶれていたし、育児だけだったら子供をつぶしていた(?)と思う。

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