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原田慶恵(物質-細胞統合システム拠点(iCeMS)・教授)

多様性を与える存在

 私の研究室で行っている研究は、生体内で重要な働きをしているタンパク質分子や、DNA分子の働く仕組みを明らかにすることを目的としている。蛍光色素やプラスチックのマイクロビーズなどを目印に、1分子のタンパク質や1本のDNAを光学顕微鏡で観察する“1分子イメージング”という技術や、1本のDNAやタンパク質分子を顕微鏡下で観察しながら光や磁石を使ったピンセットを使って操作する“1分子操作”という技術を使うのが我々の研究の特徴である。これらの研究手法のもとは、私が1992年から5年間所属していた研究プロジェクトで、研究仲間と開発したものである。このような手法を使った研究は、「生物物理」という研究分野の研究者によって行われている。「生物物理」は日本では約50年前に、物理学の研究者が生物を研究対象とすることで始まった研究分野である。以下、私が紆余曲折の末に「生物物理」の研究者になった経緯を紹介する。

 私は子供の頃から理科好きだった。これは母親の影響が大きかったと思う。昭和7年生まれの母は小学校、女学校時代は、戦中戦後の非常に大変な時代で勉強どころではなかったそうである。自分が満足に勉強できなかったことを残念に思っていたせいか、子供の教育には熱心だった。といっても「勉強しなさい」というのとは違って、魚屋のゴミ捨て場からウジ虫をとってきてそれを牛乳びんに入れて飼ったり、朝顔の“つる”を反対巻きにしてその後どうなるかやってみたり、私と姉を巻き込んで実験や観察みたいなことをやるのである。私はこのような母の誘導(?)により、しだいに理科好きになっていった。高校では他の教科はまるでだめだったが、生物だけはまあまあの成績だった。そこで、大学は理学部生物学科に進学することにした。将来のことなどまるで考えていなかったからこその進路の決定だった。どうにか茨城大学に合格し、父親の知人宅に挨拶に伺ったとき、「うらやましいなあ。僕も物理学科に進みたかったんだけど、物理や生物では就職できないからあきらめたよ」と言われたことを印象深く覚えている。

 当時は今のように“バイオ”の時代ではなく大学卒業後、同級生の多くはコンピューター会社に就職していくような状況だった。大学4年生の時に“ゾウリムシ”の研究をしている研究室で卒業研究を行った。大学卒業後、もう少し“ゾウリムシ”相手に実験を続けたくて、開設後4年しか経っていない大学院修士課程に進学した。茨城大学には大学院博士課程がなかったので、修士終了後は就職するつもりだった。ところが、今ならありえないことだと思うが、就職活動をいつからどのようにしたらよいかわからないまま修士2年生の秋になってしまったのである。

 ちょうどその頃、ゾウリムシなどの原生動物の研究をしている人が集う学会が開催され、懇親会で修士修了後の行く先がなくて困っていること周りの人に話したら、大阪大学の先生が「うちの博士課程にこないか」と声をかけてくださった。当時は異なる大学から博士課程に進学するということは、基本的にできなかったし、もしそれができるとしても難しい筆記試験を受ける必要があった。筆記試験があったらたぶん不合格だったと思うが、大阪大学基礎工学部は修士過程での研究を発表するだけでよかったので合格させてもらえた。大阪大学でも研究対象はそのまま“ゾウリムシ”だった。ゾウリムシは単細胞なのだがこの1個の細胞が1個体と同じ複雑な機能を持っている。実験対象として、とても難しい生き物で、研究はなかなか進まなかった。あっという間に1年半以上が過ぎ、このままでは博士号もとれないし、困ったなあと途方に暮れていた。

 そのころ、同じ研究室の別の先生が筋肉タンパク質の線維を蛍光色素で標識して光学顕微鏡で観察することに成功した。この実験に非常に興味を持ち、思い切ってゾウリムシの研究をやめて、その先生の元で研究を始めることにした。研究テーマを博士課程2年の終わり頃に変えるのは、今考えると無謀なことだが、当時は無我夢中だった。蛍光標識筋肉タンパク質線維を使って、光学顕微鏡下で筋収縮と同じ現象を再現するアッセイシステムを完成させ、それを使って行った研究成果が幸運にもNature誌に掲載された。1年遅れで博士号を取得し、難関だった日本学術振興会の特別研究員にも採用された。ここまできたら研究者としての道を進んでいくしかない、という状況に追い込まれ、今の私がある。

 地方大学出身で女性の私がここまでこられたのは、“生物物理”という研究分野の懐の広さと、お世話になった先生や先輩、研究仲間のおかげである。両親が私に干渉せず自由にさせてくれたことも非常にありがたかった。これからも、楽しく研究を続けていきたいと思っている。昨今“多様性”の重要性が言われているが、自分で言うのもなんだが、まさしく私が研究者集団に多様性を与える貴重な存在なのではないかと思っている。

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